中山社長は3代目。はじめは靴店を継ぐつもりはなく、海外でスポーツ分野の事業を興し、活動していました。そのなかでスペイン語を習得する必要に迫られ、メキシコに渡航しましたが、情勢の激変により事業の継続を断念せざるをえなくなってしまいました。
新しい仕事を求めてメキシコの職人が集まる市場に向かったとき、偶然にも定休日でほとんどの店が閉まっており、唯一開いていたのが靴職人の店だったそうです。中山社長は、そこで靴づくりの技術を一通り学びました。
しかし帰国して実家の店を継ぐと、オーダーメイドの靴を注文する顧客のニーズが、日本とメキシコで大きく異なることに気づきました。メキシコではデザインに関する注文が主でしたが、日本では外反母趾など足のトラブルを抱えている人が「自分の足に合う靴を作って欲しい」と求めてくるのです。
「私がメキシコで身につけた靴づくりの技術は、機械が靴を量産する工程を、人の手で行っていただけのことでした。日本でオーダーメイド靴のニーズに応えるには、解剖学や整形外科の知識と技術が必要でした。そのためには靴の先進国であるドイツに行って学ぶことが一番でしたが、とてもそんな余裕はありませんでした」
中山社長が店を継いだ当時、中山靴店は多額の借金を抱えていました。朝から晩まで休みなく働いても、中山社長が手にできる月給はわずか3万円だったそうです。
しかし顧客の要望に対して「できません」と言わないのが、中山社長の信念でした。今はできなくても、必ずできるようになると決意して「できます」と答えていたそうです。
そして諦めず、なんとか国内で学べないかと調べ続けた結果、東京でドイツのシューマイスターが、1カ月に3日間ペースで集中セミナーを開催していることをつきとめました。中山社長は夜行バスで東京と岡山を行き来し、4年かけて学んだのです。