「形式知」という言葉があります。誰にでも客観的に認識できる知識のことであり、文章や図表などで説明や表現が可能なものを指します。現在、生産業において機械化すなわちデジタル化が進んでいるのは、この形式知の部分です。
対象的な言葉として「暗黙知」があります。
これは個人的な経験から発生する知識であり、自転車の乗り方のように、自分自身は修得していても他人に説明して理解してもらうことが難しいものを指します。
患者さんの体の柔らかさや、動きにくさ、痛みの感じ方などは、明確な数字や言葉に置き換えられない暗黙知です。義肢装具士は専門家としての形式知はもちろん、暗黙知の部分を経験や感覚から理解しています。だからこそ、患者さんにぴったり合う義肢や装具が作れるのです。
しかし今、製作現場における形式知の機械化──デジタル化は、必須です。
私たち3人は5年くらい前から、義肢装具業界のデジタル化の必要性について強い危機感を持ち、それぞれの立場から訴えと行動を起こしてきました。ところが現実は思うようにいかず、IT技術の急速な進展とともに社会のデジタル化が進むなか、義肢装具業界はさまざまな事情により、アナログメインの手法から脱却できずにいます。
その緊急性を訴えるため、今回はじめて3人の意見をひとつにまとめた本を出版し、広く世の中に訴えていくことを決意いたしました。
本編に入る前に、まずは私たち3人の経歴と普段の活動、そしてデジタル化にかける思いについて、軽くお話しいたします。
◆荒山元秀(株式会社ドリーム・ジーピー 代表取締役)
市場で埋もれてしまっている価値ある技術を見出し、事業として立ち上げ、速やかに利益化できれば企業が元気になります。企業が元気になれば社員が元気になり、パートナー会社が元気になり、関係者の家族が元気になり、ひいては社会が元気になり、日本が元気になり、世界が元気になります。
これがドリーム・ジーピー(以下DGP)の理念であり、私が生涯かけて取り組むと決めた仕事です。
最も力を注いでいるのが、三次元足型自動計測機を用いて足のサイズを正しく計測し、一人ひとりの足にぴったり適合する靴を提供するための事業です。
足は人間の体を支える土台であり、心臓から末端に送られた血液を、再び心臓に戻す役割を担っています。しかし自分の足に合わない靴を履いて生活していると、足が不健康な状態になり、体全体の健康に悪影響を与えてしまいます。そのため、自分の足の形とサイズをデジタル機器で正確に測定することが大事なのです。
私は義肢装具士の国家資格を持っていませんが、2015年に新潟医療福祉大学大学院に入学して「足と3D形状」をテーマに研究を行い、無事に卒業しました。2017年からは福岡大学大学院スポーツ健康科学研究科で、さらに新たな学びに挑戦しています。
研究を始めて驚いたのは、足長と、足囲・足幅・踵幅の相関性の低さです。立ち仕事でパンプスを常用する20?50代の、足部に疾患を持たない健常女性459名の足を三次元足型計測機で測定・分析をした結果、次のようなことが分かりました。
・足長が同じであっても、足囲・足幅・踵幅には大きなばらつきがある。
・50代は40代以下と比べて平均足長が短くなり、足囲と足幅が広くなる。
・年代が上がるにつれて、第一趾側の角度は増加傾向にある。
同じ形の足は、ひとつとしてありません。しかし多くの人は足長を基準に既製靴を選んでおり、結果、足に適合しない靴を履き続け、足の健康を損なっているのです。
私は足に関係するさまざまな企業、専門職の方々と交流し、この課題解決に有効な情報を収集してきました。その中で島村雅徳さんや森永浩介先生と出会い、義肢装具士の知識と技術の高さに驚き、DGPの事業に限らずもっと広い領域で活かされるべきであると考えました。
義肢装具士が作ったモノの効果を正しく評価し、世の中に広めていくためにも、製作現場のデジタル化は必須です。この本を手にとってくださった義肢装具士の方々が、勇気を出して新しい一歩を踏み出してくれることを、心から願っています。
◆島村雅徳 ( 株式会社シンビオシス 代表取締役 人間総合大学・広島国際大学 非常勤講師 / 義肢装具士)
私は義肢装具士として大学で非常勤講師を務めながら、海外の医療機器パーツメーカーのカタログやパンフレットの翻訳、説明会での通訳などを行う会社シンビオシスを運営しています。
会社を立ち上げる前は、神戸医療福祉専門学校の「整形靴科」で講師職に就いていました。講師であるドイツ人の整形靴マイスターの通訳をしながら学生と一緒に学び、学科長として教育のマネジメントにも携わりました。そのため退職後も、機会があれば「義肢装具士には靴作りの知識が必要である」と伝えてきました。
しかしここ数年は、義肢装具業界のデジタル化について声を上げています。
正直に申し上げますと、義肢装具業界のデジタル化は遅れています。病院が電子カルテの導入を始めたとき、医療機器メーカーは「測定するだけ」の機器から「電子カルテ適用」の商品開発を一斉に開始し、水面下で激しい競争を始めました。電子カルテを導入した病院に自社製品を選んでもらわなければ、大きな打撃を受けるからです。
ビッグデータの活用が話題になり始めた昨今は、健康機器メーカーの商品に、パソコンやスマートフォンアプリと連動する機能が付加されるようになってきました。将来的に、健康管理のデータが電子カルテと繋がる可能性が大いにあるからです。
しかし義肢装具業界は、なかなかそうした動きが見られません。
私の顧客である海外メーカーは、定期的に日本各地の義肢装具製作所を訪問し、自社商品のレクチャーやアフターフォローを行っています。通訳として同行しながら私が感じるのは「医師の指示に応じて作るだけ」の元気がない会社と「デジタルデータを活かした新しい提案や挑戦をする」活気に満ちた会社との、大きな差です。
義肢装具製作はデジタル化によるメリットが、ひじょうに見えにくい業界です。しかし今後は「デジタル化をしないデメリット」が、ますます大きく、重くのしかかるようになるでしょう。
今こそ、デジタル化に舵を切る最後のチャンスです。デジタル技術が隅々まで浸透した社会で新しい役割を見出し、義肢装具業界に活気を取り戻しましょう。
◆森永浩介 ( 広島国際大学総合リハビリテーション学部リハビリテーション支援学科助教 / 義肢装具士)
デジタル技術の進化により、近年はあらゆる〝技〟の根拠が数値によって証明され、再現性の向上が進んでいます。このような中、私は義肢装具士も確かなエビデンスのもとに製作することが求められると考え、工学分野の先生の助力を得て実験と数値化を積み重ね、インソール製作におけるエビデンスの開発に取り組んでいます。
教育現場にも、デジタル化の波は訪れています。
広島国際大学総合リハビリテーション学部リハビリテーション支援学科では、3Dプリンターを用いたものづくりをカリキュラムに組み込んでいます。ただし、いきなりCADで三次元物体を設計するのは難しいため、学生はまず、思い描いたアイデアをスケッチし、寸法を記入して、それをもとに粘土でアイデアを形にします。粘土製作時には思い描いていたイメージ通りになるように形を調節し、正しい寸法が判明したらCADソフトで設計して3Dプリンターで印刷します。
なぜこのような教育を行うのか? その理由は2つあります。
ひとつは、今の若い世代は物を作ったり、物を使って遊んだりした経験が少なく、空間認知能力が鍛えられていないためです。身振り手振りで「□□はこれくらいにしなさい」と大雑把に教えても、頭の中で三次元化させてイメージを形にすることが難しいのです。そのため「この地点からこの地点に◯㎜の余裕を持たせなさい」というふうに、具体的な数字で示さなければ伝わらないケースが増えています。これは現場で新人教育を担当するベテランの義肢装具士に、ぜひ覚えていてほしいことです。
もうひとつは、電子データは保存データを瞬時に復活できるため、学生が失敗を恐れず挑戦できるというメリットがあるためです。あるアイデアに別のアイデアや情報を取り入れて新しいアイデア生み出すなど、創造性の涵養にも適しています。発見した問題を第三者に伝達・共有して解決の道を探る能力も育てられます。
このようなメリットは教育現場のみならず、製作現場の発展にも寄与するはずです。この本を通して一人でも多くの義肢装具士がCADに興味を持ってくれること、新しい世代が持つデジタル能力を理解し、活用する環境づくりが進められることを期待しています。